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野球部 情報 - 管理人

2021/09/07 (Tue) 16:58:19

浦和学院・森士物語 Never Give up!(1)
師追い指導者の道
ベンチ逃した学生時代

30年にわたって浦和学院高校野球部監督をつとめた森士(57)。平成以降の埼玉高校野球界をけん引してきた名将は、今夏の第103回全国高校野球選手権大会を区切りに勇退した。春夏通じて甲子園に22度出場。2013年春の選抜大会制覇を最高成績に、通算28勝21敗(春20勝9敗、夏8勝12敗)を記録した。選手やコーチから「大将」と慕われ、浦和学院を名門に育てた指導者の足跡をたどる。

森には公式戦の記録をつづった3冊のノートがある。「監督5年目の時、埼玉新聞の担当記者から『今、97試合目であと3試合で100試合ですよ』と言われてから書くようになった」。丁寧な字で選手のスコアや試合の総評などが事細かく書かれている。653試合、551勝99敗3引き分け。森が監督として指揮した30年間の生涯成績だ。

★父の教え

1964年6月23日、さいたま市(旧浦和市)で生まれた森は、幼少期から浦和競馬場の空き地で三角ベースに明け暮れた。市立谷田小2年生の頃、軟式野球チームに入団して本格的に始めると、週末には40歳離れた父克が練習の手伝いに来るなど親子二人三脚で汗を流した。

「父は野球経験者ではないが、剣道をやっていた人だから、あいさつなど礼儀に厳しかった」と振り返る森。「その教えが今となっては野球道として生きている」と、指導者としての根幹の形成には父の影響が大きかった。

★名将と出会う

市立大谷場中に進むと、野球部監督の指手正之の下で鍛錬を積んだ。次第に指導者への憧れを抱くようになり、エース投手として頭角を現すと、県内屈指の強豪だった上尾高へ進学した。

だが、けがに泣く。1年生夏に腰を痛め、2年生の時には利き腕の右肘に遊離軟骨を発症し手術。冬に復帰して練習を積んだが、3年間一度もベンチ入りできなかった。ただ、後に森を浦和学院へ導く監督の野本喜一郎は生前、「一番練習していたのは森だった」と周囲に明かしていたという。野本は元プロ野球選手で、埼玉を代表する名将として、既に広く知られていた。

当時から野球を極める姿勢は強く、森は進路を野本に相談。「野球を突き詰めるか、教員になるために勉強するか」と話し合った。そして、野球を探求するため、東都大学リーグの強豪・東洋大へ進んだ。

★野球を探求

1、2年生の時は分析班として東都リーグの偵察のため、神宮球場へ通った。普通は4、5人で担当する仕事を森は一人でこなした。ビデオを撮影し、スコアやバッテリーの詳細なデータを収集。「(パソコンが普及した)現代だったら一瞬でまとめられるけれど、手作業でやったからこそ勝負のポイントが分かるようになった」と振り返る。大学4年間は、選手としてはベンチ入りすらかなわなかったが、試合展開の予測能力はこの時に培われたという。

そして、2年生だった1984年。浦和学院の監督に転じていた野本から、「大学を卒業したらコーチをやらないか」と誘われる。野本はチームを86年夏に甲子園初出場に導くが、聖地で指揮を執ることなく病気のため死去。だが、森は卒業後の87年、恩師との約束を果たすべく浦和学院のコーチとなり、指導者生活をスタートした。

2021年9月7日 埼玉新聞掲載

Re: 野球部 情報 - 管理人

2021/09/08 (Wed) 12:16:24

浦和学院・森士物語 Never Give up!(2)
選抜挑戦はベスト4

1987年4月、22歳で浦和学院のコーチに就任した森は「自分は選手としては失敗作。だから、同じ思いをさせたくない」と選手の兄貴分として指導を始めた。

「兄弟のようで指導の原点だった」と振り返るエピソードがある。当時、エースの谷口英規(現上武大監督)が左肩を故障。コーチになりたての森は、再起させるため、半年にわたって谷口を森の実家に住まわせ“合宿”を実施した。

寝食を共にし、練習後は2人で浦和競馬場のダートコースを競走馬のように走ったという。そのかいがあって、谷口は故障から復帰。この夏、2年連続の甲子園出場に貢献した。選手と近い距離で関わり、5年にわたってコーチの責務を果たした。

★突然の昇格

監督人生のスタートは27歳の時、突然訪れた。91年7月末、当時の理事長が指導陣を一新する方針を打ち出す。恩師でもある前監督の野本は、森が浦和学院のコーチとなる前の86年夏、大学4年生の時に死去。初出場した全国高校野球選手権大会は後任監督に和田昭二を据えて4強入りし、翌年夏も全国切符を手にしたが、その後は甲子園から遠ざかっていた。

「ほかの指導者はみんな年上。自分はないと思っていたから驚きだった」と森。まだ27歳の若さ。「勝負の怖さを感じ始めた頃で、監督の責任を背負うのは早い」と不安しかなかった。

ところが、結果は吉と出る。就任から約1ヶ月後に開幕した初采配の秋季県大会で初優勝を飾る。決勝では、県内の公式戦27連勝中の春日部共栄に3-1で勝利。「優勝するとは思わなかった。選手たちには勢いがあって、プレッシャーがなかった」と振り返る。

★初陣で快進撃

森自身も、青年監督らしく思い切りよく指揮を執れたのが大きい。要因の一つは、母校東洋大監督(当時)の高橋昭雄に就任あいさつした時、叱咤激励され、吹っ切れたからだ。

森が「今は春日部共栄が時代を築き上げています」と言うと、高橋は「そんな弱腰なら、監督は引き受けるな」とぴしゃり。森は「あの言葉で迷いや怖さがなくなり、突っ走れた」と感謝する。快進撃は関東大会でも続く。ベスト4に進み、翌92年春の選抜大会に初出場。甲子園でも4強入りを果たした。

★進退の危機

だが、壁にぶち当たる。その後は春も夏も県大会8強止まり。2シーズン目の秋季大会は地区大会で姿を消した。地区で敗れたのは、これが最初で最後の屈辱。学校経営陣からは「森はクビ」との声が上がる。勝てない怖さを知った。

森はここで開き直る。「いつ辞めても後悔しないようにやり切ろう」。冬場の練習は、時間と質を高めた。すると、93年春は県4強。準決勝で選抜大会準優勝の大宮東に3-9で敗れたものの、中盤までは互角だった。

夏の埼玉大会決勝は2-5で涙をのんだが、対戦した春日部共栄が甲子園準優勝。「あそこまでやれば戦えることを知った」と、森は自信をつかんだ。

監督就任から2018年夏までの27シーズンで、春夏秋の県大会のうち毎年1大会以上で優勝。県の頂点に立てなかった2シーズンも、夏の埼玉大会決勝には勝ち進んでいる。

2021年9月8日 埼玉新聞掲載

Re: 野球部 情報 - 管理人

2021/09/09 (Thu) 09:06:45

浦和学院・森士物語 Never Give up!(3)
大逆転勝ち転機に 二つの病苦越え黄金期

森には「忘れられない試合」がある。監督3年目の秋、1993年秋の地区大会1回戦の大宮北戦だ。延長十一回の末、13-12でサヨナラ勝ちしたが、六回途中までは1-12と大量リードを許していた。スタンドの学校関係者は大敗を予想し、途中で球場を後にする。森は悔しがり、「必死になった」。火が付いた闘志は選手にも伝染。猛反撃を開始して九回に追い付くと、十一回に決着をつけた。どれほど劣勢でも、諦めない大切さを痛感。勝ちにこだわる姿勢を貫く原点となった。

勝負強さはさらに増す。5年目の96年には、現在浦和学院でコーチを務めるエース三浦貴や石井義人(元埼玉西武)、小川将俊(元中日)らを擁し、初めて春夏連続で甲子園出場。常勝軍団として歩みだした。

★野球か家庭か

だが、新たな苦しみが立ちはだかる。90年代の埼玉高校野球界は、全盛だった公立勢に代わり、浦和学院や春日部共栄など台頭する私立勢が勢力図を塗り替えていった転換期だった。新興私学に対する風当たりは強く、嫌がらせ電話やいたずらも受けたという。

家庭にも問題が生じる。2人の息子を育てながら監督業に奔走する夫を支える重圧から、妻志奈子がパニック障害を発症。森は「家庭を顧みず、犠牲にしていた」と言う。野球を取るのか、家庭を選ぶのか。人知れず悩む日々を送っていた。

★重圧から解放

98年には、森自身がストレスから胃潰瘍を患ってしまう。入院せず薬で治療したが、胃酸が込み上げてくる状態。「もう限界だ。辞表を書こう」と考えるようになった。

そんな8年目の99年春、学校経営陣が一新された。少しでも成績が思わしくなければ、即解任を覚悟しなければならない立場に置かれていたという。だが、新理事長に胸の内を明かすと「まずは体を治してください。そして野球部は全てあなたに任せます」と言われた。「気持ちが楽になった」と森。勝利を追求する姿勢は変わらないが、過度な重圧から解放されたのは救いとなった。

★好敵手で師弟

本多利治率いる春日部共栄とは、深い縁がある。9年目の2000年夏、埼玉大会決勝では、延長十回の激闘に2-1でサヨナラ勝ち。両者の顔合わせは91年秋の県大会決勝を皮切りに、93年夏からは4季連続で県の頂点を決勝で争った。森は「春日部共栄を倒さないと甲子園に行けない」と言い、本多も「勝利への執念が強く、お互いに目標とする関係」と認める。

プライベートでは親交を育んできた。食事会を開き、野球談議に花を咲かせる。「ユニークな人だが、野球になると人が変わる」と本多。森は「おとこ気があって尊敬できる。野球についていろいろ聞いた」と、7歳上の先輩監督を師のように慕う。

20世紀最後の夏にライバルを倒した勝利に、森は「監督人生の分岐点」と捉える。浦和学院は黄金期を迎えた。02年春の選抜大会から08年夏の全国高校選手権大会までの7年間、春夏いずれかで甲子園に出場。06年から08年にかけては、1県1代表制後、当時史上初の埼玉大会3連覇を果たすなど敵なしだった。=敬称略

2021年9月9日 埼玉新聞掲載

Re: 野球部 情報 - 管理人

2021/09/10 (Fri) 08:47:49

浦和学院・森士物語 Never Give up!(4)
親心知って円熟味 全国で勝てない壁破る

森に転機が訪れた。2006年から長男大(現監督)、09年からは次男光司(鷺宮製作所コーチ)を6年間指導したことだ。森は息子たちに「同じレベルならば他の選手を使うし、チームの代表として叱ることもある。つぶしてしまうかもしれないから、来ない方がいい」と浦和学院への進学を諦めるように説得した。それでも覚悟して入学した2人。森は厳しく接した。

★生徒は息子

だが、「親として勝つ喜びを教えることができ、成長を見届けられて楽しかった」と明かす森。08年夏に大、11年春には光司と一緒に甲子園の土を踏み、これまでにない幸せを味わったという。

新たな気付きも生まれた。「生徒はわが子とは違うと一線を引いていたが、自分を慕って入った生徒たちは実の息子と一緒だ」と思うようになった。森は日頃、教育の原点を「子育て、しつけ、親心」と話す。その哲学は、親子鷹(だか)の経験を通して、選手たちに父親目線でより密接に関わるようになったことから形づくられたものだ。

★ボランティア

11年から10年間続けた東日本大震災のボランティア活動も、価値観を変えた。震災で開催が危ぶまれた11年の選抜大会に出場できた感謝を込め、部員たちを連れて12月下旬に3泊4日の活動を初めて実施。宮城県内で炊き出しなどをする中で、両親を亡くした女の子に話を聞いたりした。

石巻市立北上中を訪問した時には、こんなことがあった。全校生徒の前であいさつした森は、自身の座右の銘と同じ「Never give up」と書かれた額が飾られているのを発見。「彼ら彼女らは、命を懸けて生活している。おれたちが(試合で)びびってどうする」と心打たれた。

以来、試合で指揮を執るときの姿勢が変わった。今まではベンチの奥で戦況を見守っていたが、グラウンドに一番近い位置へ立ち、「おれを見ろ。びびるな。思い切りやろう」と選手に笑顔を送るようになった。

★名将に学ぶ

県内で輝かしい成績を収める反面、全国の舞台では結果を残せなかった。チームは05年春から11年春までの甲子園で、出場した5大会連続で初戦敗退。そんな頃、高校日本代表のスタッフに選ばれ、勝つ術を知る。

11年、第9回AAAアジア選手権大会の日本代表コーチとなった。09年の第8回大会は監督を任され、3位になっている。だが、コーチとして仕えた総監督は星稜(石川)監督の山下智茂、監督は横浜(神奈川)を率いる渡辺元智(いずれも当時)。ともに、高校野球界を代表する名将だ。

わずか2週間で代表チームをまとめて優勝。マネジメント力に感銘を受けた。森は「チームリーダーの意識の高さ、選手がついていきたいと思う姿勢はどういうものかを知った」とチームに還元。すると12年の選抜大会で8強入りし、全国高校野球選手権大会では夏初めての2勝を挙げた。

「ボランティア活動、親子鷹、日本代表の経験があったから、選抜で優勝できた」と言う森。人生の年輪を重ねて円熟味を増した13年春、ついに栄光の時を迎える。=敬称略

2021年9月10日 埼玉新聞掲載

Re: 野球部 情報 - 管理人

2021/09/11 (Sat) 10:03:47

浦和学院・森士物語 Never Give up!(5)
全国制覇で心動く 後任育成の挑戦始まる

ボランティア活動の経験もあり、選手たちの心に変化が生まれた。「生徒たちは苦しいことにへこたれなかった」と厳しい練習に耐え、愚直に勝利を追い求めた。その結果、2012年秋の関東大会で史上初の3連覇を達成。「東の横綱」と注目されて臨んだ13年春の選抜大会で新たな歴史を築く。

選抜では、全5試合で59安打47得点。4試合連続2桁安打、うち3度は2桁得点。投げては2年生エースの小島和哉(現ロッテ)が計42回を3失点と、投打で圧倒的な力を見せた。

★優勝の鍵

全国制覇の鍵を握ったのは、初戦(2回戦)の土佐(高知)戦だったという。結果は4-0で勝利したが、チームは初戦の緊張からか、思うようなプレーができず、反省点が多かった。安打数は土佐と同じ6本。12四死球をもらいながらも、3度のバント失敗に併殺も二つ。13残塁と不安を残した。

ただ、森の心の中は少し違った。スタンドは21世紀枠で20年ぶりに出場した土佐ファンで埋まり、甲子園は完全アウェーの雰囲気と化した。その中で戦い抜いたことに「これはいけるかもしれない」と優勝を予感。土佐戦の翌朝、恒例の早朝散歩で選手たちに森は「おまえたち優勝できるぞ」と言った。それは的中することになる。

★破竹の勢い

初戦を突破すると、チームは水を得た魚のように目覚ましい快進撃を見せた。3回戦の山形中央戦で長短14安打11得点と打線が爆発し、11-1の快勝。2年連続8強入りを果たすと、準々決勝の北照(北海道)戦では、先発小島が七回まで1安打無失点に抑えると、七回に一挙6得点を奪い10-0の圧勝。監督就任1年目以来、21年ぶりの4強入りを決めた。

準決勝の敦賀気比(福井)戦では、4番の高田涼太(現JFE西日本)が1大会3本塁打と3試合連続本塁打を記録し、5-1で下した。勢いは止まらず、決勝では安楽(現楽天)擁する済美(愛媛)に17-1の大差で勝利し、県勢45年ぶりの紫紺の大優勝旗を手にした。

監督就任22年目で初めて上り詰めた全国の頂点に森は、「人生で初めて野球が楽しいと思った」と感極まった。そして、「次は夏で全国制覇だ」と自らを奮い立たせた反面、「俺だけで終わらせないため、後継者を考えないといけない」と頭の片隅で考え始めていた。

★高ぶる心

同年夏、4季連続で甲子園に出場した。春夏連覇は果たせなかったものの、選抜優勝の影響は大きく、その後全国各地から選手が集まり始めた。その中、13年7月に三浦貴、16年1月には長男の大をコーチで招いた。指導者育成を目的に、コーチ陣に練習を委ねる時間が増えた。今までと一味違ったチームづくりへの挑戦という思いの下で。

だが、監督歴20年を超えた経験値と選抜優勝の自信からか、慢心状態だった。選手に指導しても、「俺の言うことを聞けば勝てるのに」「何で言っている意味が分からないの」と感じていた。

2021年9月11日 埼玉新聞掲載

Re: 野球部 情報 - 管理人

2021/09/12 (Sun) 11:07:26

浦和学院・森士物語 Never Give up!(6)
大学院で己を磨く

2015年春の選抜大会でもベスト4と結果を出しつつ、後継者育成に力を入れ始めた森に新たな挑戦の機会が訪れる。浦和学院高の理事長から「今後のために学びなさい」と促され、16年4月から1年間、スポーツマネジメントを勉強するため、早大大学院に通った。

当初、大学院へ行くことには懐疑的な思いもあったが、入学直後に参加した1泊2日の合宿で自らの未熟さを思い知らされる。自己紹介で森は自分の職業を話し、その内容に手応えを感じていた。だが、森より1歳上の教授から「話しが面白くない」と衝撃的な一言。その後も「井の中の蛙」「裸の王様」「その言い方では生徒に言葉が刺さらない」と耳に痛い言葉が並んだ。

森は「ショックだったけれど、ありがたかった」と語る。高校野球界では、実績を挙げた監督として一目置かれる存在。選抜大会優勝で名声も得た。周囲には苦言を呈する人はいなかった。森は「自分にはまだまだ“学”がないんだ」と気が付く。

★価値観に変化

「情けないけれど悔しい」と森は勉学に励んだ。それからは、午後5時までチームの練習を見てから大学に通い、同6時15分から3時間受講する日々を送った。講義中、授業の展開の速さについて行けず、監督室に戻ってボイスレコーダーを聞き直し、文字起こしする毎日。そんな時に気付いた。「きっと生徒(選手)も、こんな気持ちなんだ」

テレビ関係者ら、他職種の人との議論も価値観を変えた。意見を交わす中で主張が通らず、森は「野球界の常識は世の中の非常識」と感じた。「監督が右と言ったら右に従う。なぜかと言われたら、昔からそうだったから。でも、これには根拠がない」と、視野を広く持つ必要性を知った。

★根拠と言葉

修士論文の作成にも奔走した。「高校球児における全国制覇を目指した生活とその後のライフスキルとの関係」をテーマに研究し、言葉の扱い方や膨大なデータ量を前に苦闘。「これほど勉強したのは初めて」と文字と数字に向き合った。

修士課程を修了した森は、感性重視で指導するのではなく言葉で伝える意識が根付いた。相手が聞きやすく、分かりやすい言葉を選び、話す内容を頭の中で構成するようになった。「背中でものを言うのではなく、今の子には根拠や裏付けがないと伝わらない」と26年目を迎えた17年から指導方法を一新した。

★闘志再び

「(18年夏の)100回大会を区切りに勇退かな」。森は身を引く時期を具体的に考えるようになっていた。そんな時、ショックを受ける出来事が起きた。17年夏、埼玉大会決勝の花咲徳栄戦だ。「負けるはずがない」と臨んだが、結果は2-5で敗戦。「甲子園を目の前に負けるのが一番悔しい」と唇をかんだ。

衝撃は終わりではなかった。埼玉代表として甲子園に出場した花咲徳栄が県勢初の優勝。監督室のテレビで決勝を見た森は「夏はうちが取ると思っていた。(花咲)徳栄に時代を奪われ、王座から引きずり降ろされた」と痛感した。何日も続いた喪失感。そして、「王座を取り戻すしかない」。森に再び闘志が宿る。

2021年9月12日 埼玉新聞掲載

Re: 野球部 情報 - 管理人

2021/09/15 (Wed) 11:41:14

浦和学院・森士物語 Never Give up!(7)
最後の夏、甲子園へ

就任27年目の2018年春は、県大会で6連覇を果たした。全国高校野球選手権大会にも出場し、監督として夏の甲子園で初の8強。大型右腕の渡邉勇太朗(現在埼玉西武)らを擁し、自身の夏最高成績を残した。

★将来を議論

だが、新チームに代替わりして28年目を迎えると低迷期に入った。18年秋と19年春は、ともに県大会2回戦敗退。監督就任後、初めてノーシードで挑んだ夏の埼玉大会は、4回戦で幕を閉じた。そして、秋の県大会準決勝では花咲徳栄に延長十回の末、1-2で敗戦。4季連続で県大会決勝に進めなかったのは、監督1年目の1992年春から2年目の93年春にかけて以来だった。

秋の県大会が終了して数日後、学校関係者と身体を話し合うことになった。森の今後の人生設計、チームの将来について議論した。その結果、「そろそろチームのためにも(退任)時期を決めないといけない」(森)と当時の1年生が最高学年となる21年夏を最後にすることを決めた。

★コロナ禍

監督生活の最終章を歩み始めた矢先、思いもよらぬ出来事が起きた。20年の年明けから、新型コロナウイルスが国内外で流行。春季高校野球地区大会と県大会に加え、夏の全国高校野球選手権大会と同埼玉大会が中止。甲子園への道は世界的な感染症拡大によって閉ざされてしまう。

21年2月には、部内でクラスター(感染者集団)が発生。部員53人の半数以上が陽性となり、3月中旬までの約6週間、全体の活動が停止となった。選手が隔離生活を送る中、森は寮内や食堂をアルコールで消毒、清掃するなど奔走した。

3月下旬に活動が再開されたものの、陽性者には三半規管に影響して体調回復が遅れる選手もおり、感染の有無に関係はなく練習が積めなかったため体力が低下、だが、時間は待ってくれない。4月中旬には、春の地区大会が迫っていた。

急ピッチで準備しなければならない状況。森は「経験したことのないチームづくり」と振り返る。「若い頃もここまではしなかった」と、監督生活で最も長い時間グラウンドに立った。これが吉と出る。選手にとことん付き合い、時間を共有したことで距離が近くなり、固い絆が結ばれた。春の大会は1試合ごとに成長し、県のタイトルをつかんだ。

★退任を表明

監督生活最後の夏がやってきた。埼玉大会は初戦の2回戦で聖望学園に逆転勝ちすると、順当に勝ち上がった。準決勝では春日部共栄に6-1で逆転勝利し、決勝も昌平に10-4で快勝。そして、「いつか言わないといけない。優勝させてもらったから、ここが一番いい」と試合後のインタビューで今夏限りでの退任を明らかにした。

反響は大きかった。永年のライバルであり、森が師としても慕う春日部共栄監督の本多利治もその一人だ。準決勝の試合後、互いに握手を交わした時、「今度遊びに行きますね」と言われ、本多は「もう辞めるんだな」と悟ったという。甲子園出場を決めた直後、森本人の口から発表され、「俺がまだこの年(63歳)で監督をしているのに、辞めるのは早いよ。なんか寂しいな」と本多。多くの高校野球ファンや指導者が、鮮やかな引き際を惜しんだ。=敬称略

2021年9月15日 埼玉新聞掲載

Re: 野球部 情報 - 管理人

2021/09/16 (Thu) 17:06:02

浦和学院・森士物語 Never Give up!(8)
指導した選手千人

選手たちが導いてくれた甲子園。今夏、浦和学院は第103回全国高校野球選手権大会に出場し、森は監督として春夏通算22度目となる聖地の土を踏んだ。2018年夏以来、春夏通じて3年ぶりに帰ってきたグラウンド。ベンチに立った瞬間、森は「やっぱり甲子園は最高の舞台だな」と高校野球界最高峰の大会にいる喜びと感謝が込み上げてきた。

★初戦で敗退

だが、真剣勝負の世界だ。退任を表明して迎えた大会でも、厳しい戦いは待っている。森は「最高のパフォーマンスで一戦必勝を」と、ナインを鼓舞して送り出した。8月21日、日大山形と手合わせした初戦の2回戦は、7度の降雨順延による試合勘のずれも響き、3-4で惜敗。森は「ショックだった」と言う。監督最後の大会は、あっけなく幕を閉じた。

一夜明けた22日、選手と恒例の早朝散歩の後、ミーティングを実施。1人ずつ甲子園の感想などを聞いた。「悔しいけれど楽しかった」「独特の雰囲気だった」と、さまざまな意見を耳にし、森は「負けて悔しいが、やり切った。夢の続きは後任に託そう」との思いを抱く。そして、選手たちを「お疲れさま」とねぎらい、笑顔で帰路に就いた。

★バトンタッチ

「責任やプレッシャーから解き放たれて、安堵(あんど)しているよ」。高校野球の名門監督というよろいを脱いだ森の表情には、すがすがしさがあった。監督を退いて3日後の24日。長男大(だい)が後任の監督に就任し、チームは新体制で始動した。それをグラウンドではなく、遠くから見守る森。「託すに当たっては、期待と不安が入り混じっている」と正直な胸の内を明かす。

27歳で始まった波乱万丈の監督人生。森は「後悔はない」ときっぱり。「自分の性格を考えると、監督という仕事は天職だった」と満足げな表情だ。ただ、「できればもう一回(甲子園に)行きたいな」と聖地の雰囲気は忘れられないようだ。

森は常々、監督業は勝たせることが仕事だと言う。なぜ、30年間で公式戦通算551勝を挙げ、全国制覇を成し遂げることができたのか。「人間性を磨くことが、勝つことに一番の近道だった」と振り返る。「勝ち負けの世界に身を置く中で、目標に向かうマネジメント力が成長を促す」。経験から導いた持論だ。

指導した選手は、ちょうど千人。「ほとんどの生徒の顔と試合は覚えているね」。歴史の一コマ一コマが、森の心と体に深く刻まれている。

★第2の人生

森は、自分に投資する時間を大切にしている。日課として、1日平均10キロのランニングと1時間の読書を欠かさない。高校野球の指導者を退いたとはいえ、まだまだ働き盛りの57歳。新たな挑戦に動き出している。

構想を進めているのは、小中学生を対象にした地域スポーツ活動への取り組みだ。「野球界で人間として成長させてもらった恩返しをするため、スポーツを通じて社会貢献していきたい」と、副校長の立場で引き続き学校に籍を置きながら、NPO法人の具体的な活動準備に追われている。

「私はいつも、『高校野球は人生を凝縮した2時間ドラマ』に例えるが、これからの人生は2時間ドラマで経験したことを生かして次の世代にゆっくり伝え、過ごしていきたい」。森士物語の第2章が今、幕を開けた。=敬称略 

=おわり=

2021年9月16日 埼玉新聞掲載

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